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八代目市川團蔵(はちだいめ いちかわ だんぞう、明治15年(1882年)5月15日 - 昭和41年(1966年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。 1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。1896年(明治29年)市川茂々太郎と改名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。その後、初代中村吉右衛門一座に加わり脇役を勤める。1943年(昭和18年)歌舞伎座『毒茶の丹助』の丹助役で、八代目市川團蔵を襲名。 1966年(昭和41年)4月『菊畑』の鬼一と『助六』の意休役で引退。直後の四国巡礼の帰途、小豆島発大阪行きの船上で消息を絶つ。入水自殺と推測される。遺体は上がっていない〔永六輔『遠くへ行きたい』p.205(文芸春秋、1972年)。〕 辞世は「我死なば 香典うけな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」墓所は谷中霊園。戒名は「巌生院釈玲空」。 『松浦の太鼓』の宝井其角、『石切梶原』の六郎太夫、『河内山』の高木小左衛門など、地味ながらも堅実な演技で舞台を支えた。また、父七代目市川團蔵についての著書『七世市川團蔵』を著し歌舞伎研究に業績を残した。孫九代目市川團蔵には『書写山』の鬼若の型を伝えた。また甥でのちに養子に迎えた五代目市川九蔵がいる。 その入水の際に網野菊が「一期一会」(講談社文芸文庫)を書いて偲んでいる。 團蔵の死について三島由紀夫は、「団蔵の死は、強烈、壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評であつた。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世間から思はれてゐるが、本当に人の心を搏つのは、ごく稀ながら、このやうな命を賭けた批評である」〔三島由紀夫『団蔵・芸道・再軍備』(20世紀、1966年9月)。『決定版 三島由紀夫全集第34巻・評論9』(新潮社、2003年)に所収。〕と、團蔵を追悼し、その死の意味を考察した論評を書いた。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川團蔵 (8代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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